コラム

【ELPASO会員コラム44-2】世界の中での日本の教育について ~「平均的な優秀さ」から「違いを価値に変える力」へ~

2026年9月25日

事務局

2026.9.25
立命館宇治中学校・高等学校 元校長 越智規子

 世界が大きな転換期を迎えている。生成AIの急速な進化、人口構造の変化、気候変動、地政学的な緊張、そして国境を越えた人材獲得競争。十年前には想像できなかった速度で社会の前提が書き換えられる中、教育もまた、大きな転換点に立っている。
 教育は、単に子どもたちに知識を伝える営みではない。十年後、二十年後の社会をつくる人材を育てるという意味において、国家や企業の未来を左右する最も長期的な「投資」の一つである。だからこそ、世界の中で日本の教育がどこに立ち、何を守り、何を変えていくべきなのかを、教育界だけの問題としてではなく、社会全体の課題として考える必要がある。

 日本の教育には、世界に誇るべき強みがある。基礎的な学力を幅広い層に保障する力、学習規律の確立、他者の話を聞く力、集団の中で自らの役割を果たそうとする責任感、そして協働する力である。こうした力は、これまでの日本社会や企業の強さを長年支えてきた土台でもある。
 一方で、その「平均的な優秀さ」を生み出す仕組みが、時として一人ひとりの突出した才能や異質な発想を伸ばしにくくしてきたことも否定できない。
 これまでの教育では、「正解にたどり着く力」が高く評価されてきた。しかし、生成AIが膨大な情報を瞬時に整理し、文章を書き、画像をつくり、一定の問題解決まで担う時代に、人間に求められる能力そのものが変わり始めている。これから重要になるのは、「正解を知っていること」だけではない。「何を問うのか」「なぜそう考えるのか」「異なる情報をどう結びつけるのか」、そして「まだ存在しない価値をどう生み出すのか」という力である。言い換えれば、教育の役割は「答えを教えること」から、「問いを生み出せる人を育てること」へと、その重心を移しつつあるということである。私はここに、日本の教育が次の時代へ進むための大きな鍵があると考えている。
 欧米の教育では、自己の考えを言語化し、異なる意見と向き合いながら議論することが重視されてきた。またアジアでも、基礎学力を重視しながら、探究的な学び、STEAM教育、起業家教育などを積極的に取り入れる動きが広がっている。ただし、日本が海外の教育をそのまま模倣すればよいわけではない。むしろ、日本が培ってきた「協働する力」と、一人ひとりの「突出する力」を両立させることこそ重要だと考える。

 個を尊重することは、集団を否定することではない。異なる経験、異なる能力、異なる価値観を持った人間が集まり、それぞれの強みを持ち寄るからこそ、組織には新しい価値が生まれる。このことは、教育だけでなく、企業経営にも通じるところがあるだろう。同じような人材をそろえ、同じ方向を向かせる組織よりも、異なる専門性や発想を持つ人材が互いを認め合い、共通の目的に向かって力を発揮する組織の方が、変化の激しい時代には強さを発揮するであろうことは、容易に想像できる。
 学校も同じである。「みんなと同じようにできる子」を育てるだけではなく、「この子にしかできないことは何か」を見つけ、それを伸ばす教育へ。平均点を上げる教育と同時に、平均から大きく飛び出すことを恐れない教育へ。日本の教育には、その両方の視点が必要になっている。
 そのためには、評価の在り方も変わらなければならない。テストの点数は重要な指標である。しかし、点数だけでは測ることのできない力もある。自ら問いを立てる力、試行錯誤する力、失敗しても再び挑戦する力、他者と協働する力、そして自分の考えを社会に向けて発信する力である。評価とは、本来、人を序列化するためだけのものではない。その人の可能性を発見し、次の成長につなげるための羅針盤であるべきである。

 同時に、現在の教育界は、これまでとは異なる新たな課題も突きつけられている。教師不足や教職員の多忙化、不登校の増加、家庭環境や地域による教育機会の格差、デジタル環境の格差。
 そして生成AIの登場によって、「自分で考えるとは何か」「学ぶとは何か」という教育の根本そのものも問われ始めている。AIを「使わせない」教育だけでは、実際に子どもたちを未来に送り出すことはできない。一方で、AIが示した答えを無批判に受け入れるだけでは、思考力は育たない。必要なのは、AIを「使う力」と、AIを「疑う力」の双方である。情報の真偽を確かめ、自ら判断し、最後は自分の言葉で意思決定する。その力は、これからの民主社会や企業経営を支える基礎的な素養にもなるだろう。

 そしてもう一つ忘れてはならないのが、教育を担う大人の問題である。
 子どもたちに「挑戦しなさい」「変化を恐れるな」「多様性を認めなさい」と言いながら、大人自身が過去の成功体験や固定観念に縛られていては説得力がない。変化を求められているのは、子どもだけではない。教師も、保護者も、企業も、そして社会そのものも学び続けなければならない時代に入っている。かつては、「学校で学び、社会に出て、その知識を使って働く」という比較的明確な人生の構図があった。しかし今後は、社会に出た後も学び直し(リスキリング)、専門性を更新し、ときには全く異なる分野へ踏み出すことが当たり前になる。教育と仕事は、もはや人生の前半と後半に分かれたものではなく、生涯を通じて循環するものになってきている。

 教育改革とは学校だけの改革ではない。企業がどのような人材を求め、どのような人を評価し、失敗や挑戦をどこまで許容するのか。それ自体が、若い世代への強力な教育メッセージになる。教育界と産業界は、これまで以上に「どのような人を育てたいのか」という問いを共有する必要がある。
 このような視点から世界の中で日本の教育を考えるとき、海外との単純な優劣を競うことには、もはや大きな意味はない。大切なのは、日本がこれまで培ってきた強みを失うことなく、新しい時代に必要な力をそこに加えていくことである。「基礎学力と創造性」「規律と自由」「協働と突出」「伝統と革新」・・・など、一見相反するこれらを、どちらか一方に振り切るのではなく、両立させていく。その中に、日本ならではの次世代教育の姿があるのではないだろうか。

 教育とは、未来を先取りする営みである。
 今、教室にいる子どもたちは、二十年後には社会の中核を担っている。そのとき彼らが向き合う世界を、私たちは今の段階で正確に予測することはできない。だからこそ、「何を知っているか」だけではなく、未知の状況に出会ったとき、自ら問い、考え、人とつながり、新しい価値を生み出せる人を育てなければならない。

 日本の教育は今、大きな転換点に立っている。
 守るべきものは守り、変えるべきものは大胆に変える。そして、一人ひとりの違いを弱点ではなく価値として捉える。
 「平均的に優秀な人を育てる教育」から、「それぞれの違いを社会の価値へと変えられる人を育てる教育」へ。その転換を実現できるかどうかは教育界だけではなく、日本という国がこれから世界の中でどのような価値を生み出していけるのかという問いにも深くつながっているように思う。
 世界から学び、日本の良さを見つめ直し、そして日本だからこそできる教育を世界へ発信していく。世界の中で日本の教育が目指すべき道は、他国に追いつくことでも、同じになることでもなく、私たち自身の強みを生かしながら、新しい時代の教育の価値を創り出していくことにあるのではないだろうか。



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