コラム

【ELPASO会員コラム38-2】意思決定について考える(1)

2025年3月21日

事務局

2025.3.21
公認会計士 野村 滋

人は日常生活で一日およそ数百から数千の意思決定を下していると言われています。
政治家や経済人が行う意思決定には、歴史に大きな影響を与えることになるものが多々あります。
二回にわたり戦後80年間で、日本で行われた意思決定がどのように社会を動かしていったかについて考えてみます。

戦後復興期からバブル景気前夜(1985年頃)
1945年(昭和20年)8月15日の敗戦によって、民主主義国家として日本がスタートしました。
歴史上はじめて日本は他国に支配されることとなり、マッカーサー元帥率いるGHQによって民主化の各種政策が示され、実施されていきました。
1947年5月3日に「国民主義」「基本的人権の尊重」「平和主義」を三つの基本原則とする日本国憲法が施行されました。
1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は連合国GHQからの独立が認められました。
この期間においては、政治の世界はGHQと交渉しても全く取り上げられず、経済界においても財閥解体や公職追放などで独自の重要な意思決定は行われませんでした。

1950年には朝鮮戦争が勃発し、日本は特需で復興の足掛かりをつかみます。
経済界では新規投資も行われ、人々は貧しさから逃れるために昼夜を惜しんで働き生活は急激に改善されていきました。
この時代は、工業や農業の復興のために経済界や民間レベルで積極的な意思決定が行われ、明日への希望を持てる時期であったと考えます。
1960年以降は、政官一体となった重要な意思決定がなされ、経済界も政策実現のため事業拡大の意思決定を行いました。
1960年代の所得倍増計画、1964年東京オリンピック開催、1970年大阪万博開催、1970年代の列島改造計画など景気浮揚策がとられ、戦後の混乱は終息しました。
この時期は政権与党の圧倒的多数で政官一体で政策を決定し、産業界も旺盛な投資意欲を示しました。
1950年以降のGDPは毎年10%を超えて成長し、1968年には米国に次いで世界2位となりました。
当時は「日本株式会社」と呼ばれ、海外からも驚異の目をもって見られるようになりました。
企業は海外に現地法人を設立し、堅実な発展を遂げました。
1979年にはエズラ・ボーゲルの”Japan as Number 1”という本も出版され、海外からも発展ぶりが称賛されました。
近代日本史の中で1985年までが戦後日本における最も好ましい「意思決定」が行われた時期と考えます。
その後、日本は過剰な自信を持つに至り、緻密な分析を伴わない意思決定が行われることも多くなり、バブル時代へと突入することになります。

バブル景気から崩壊に至る時期(1985年~1995年)
1985年には先進5か国によるプラザ合意によってドルに対して主要国通貨が10~12%切り上げられ、その結果、急速な円高により輸出が減少し国内景気が低迷しました。
円高不況に対して日銀は低金利政策を継続し、金融機関による過度な貸し出しが過剰流動性を招き、株式や不動産への投機が加速しバブル景気がおきました。
1980年代前半まで堅実な意思決定を行ってきた企業も円高対策として、輸出から現地生産へと舵を切っていきました。
海外展開のスピードを上げるためと円高の効果で現地企業へのM&Aがさかんに行われました。
M&Aは現地対象企業の財務状況や技術レベル・マーケットポジション等を詳細に調査し適正な価額で行う必要があります。
しかし、当時は不十分な調査とリスク判定のために短時間で拙速な「意思決定」が頻発しました。
また、国内の競合他社との横並び意識から海外M&Aを行うという、目的を明確にしない「意思決定」もおこなわれました。
このような、明確な目標を持つことなく、緻密な分析とリスク判断が欠如した意思決定は将来に禍根を残すことを認識すべきでした。

バブル崩壊以降については次回で考察いたします。(続く)



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