第3回ブログ(2015.6.)理事;日比野雅夫 「多様性を受容して新しい創造へ」

 僕は仕事柄海外に駐在したほか、海外へ行く機会が多かったので、文化の違いや考え方の違いということにずっと関心を持ち続けている。以下経験から得られた日本との“違い”に特に焦点を当てて述べていきたい。

1、アラブ流とは
最近、エジプトに行く機会があった。アラブ諸国の政治的不安定さに加え、テロの頻発の中で多少の不安もあった。実際、エジプト滞在中に他国とはいえ同じ北アフリカのチュニジアで日本人も被害にあったバルド国立博物館へのテロが起きた。日本から見ているとさぞ物騒な国々と映るかもしれない。しかし、地元の情報を頼りに安全といわれている地域にいると、全く物騒さを感じない。逆に長年エジプトにいる人々から見ると日本もたいそう物騒な国に見えるらしい。前に地下鉄サリン事件があったよね、最近では3.11の大震災で2万人近い人々が亡くなったよね、いまでも放射能が出続けてるらしいけど大丈夫?火山の噴火もあるよね、という具合だ。つまり、外から見た日本と、内から見る日本はかくも見え方が違うということだ。
また、カイロの博物館に行ったときのことである。案内の若い女性が、エジプトのシシ現大統領について語ったので、こちらも“日本では昔のナセル大統領がとても有名だ”とお世辞を言ったら、その女性は目を輝かし“何故だ?”と聞いてきた。本当は“為せば成る為さねばならぬ何事もナセルはエジプト大統領”くらいしか知らないが、そ知らぬ顔で“あの当時のナセル大統領はグレートだった。エジプトはアラブの盟主として他国をリードしていたよね”と適当に返事をした。するとその女性は真顔で“本当にそうだ、ナセルはその当時完全にエジプトをgovernしていて、政治的に大変安定していた”と言う。僕はこのgovernという言葉にとても重みを感じた。エジプトの人々ひいてはアラブの人々にとって独裁か民主主義かということはどうでもよくて、安定した統治ということがとても重要なのであろう。欧米や日本の価値観だけが至上のものであるというのは思い上がりも甚だしいのではないか。アラブにはアラブの流儀があるのだ。

2、シリコンバレー流とは
僕は40歳代の前半に4年ほどシリコンバレーに駐在したことがある。その縁で30年近くシリコンバレーの人々と交流があり、それは今でも続いている。今も昔も彼らの起業へのパッションはすさまじいものがある。まず、考え方である。彼らは後ろ向きという言葉を知らないかのごとくである。当時、僕の元でいくつかのプロジェクトが同時進行していた。そのうちの一つが完全に破綻し失敗した。若かった僕はそのプロジェクトのリーダーに何故だと詰め寄った。暗に日本流に反省しろと言いたかったのである。ところが、その時、彼は意外な言葉を口にした。今でもはっきり覚えている。“I learned lots throughout this project.” 何とこのプロジェクトで多くのことを学んだ、と言ったのである。何という前向きな言葉だろう。この時以来、僕は一切後ろ向きな言葉は言うまいと決めたのである。
VC(ベンチャーキャピタリスト)がどういう起業家に金を出すかというと、いろんなことにチャレンジして失敗を経験した人、というのも一つの大きな基準になっている。要は多くのことを学んだはずだというのである。僕なりに解釈すると、若いうちになるべく致命傷とまではいかない傷を経験しておくということになる。チャレンジしない、すなわちリスクをとらない人には大きな仕事はできないはずだというシリコンバレー流の考え方だ。そして、ある程度のタマ(起業家その人と商品力など)が出てくると、それを取り巻く十重二十重のシリコンバレー流サポートが始まる。財務が弱ければCFOをチームに呼んでくる、法律が弱ければLawyerを連れてくる。これらのサポートは一流の判断能力と人的ネットワークを有するベテラン達の仕事だ。それでも成功と呼べるのは、10の起業のうち1つか2つである。日本でシリコンバレーと同じように起業家達を輩出し、育てていくのは並大抵の事ではない。それでも日本が有力な先進国として新しい事業、企業を創っていく事は世界の中での大きな役割の一つである。

3、世界流とは
レジリアンス(Resilience、回復力)という言葉がある。これは、ダメになった時どれだけ反発できるか、ということを意味している。もちろんレジリアンスが高い方が良いに決まっている。ダメな時あるいは予期せぬ問題が起こった時、どう反応してベターな方向に持っていくかということが重要である。ここに日本と諸外国とで大きな考え方の差があるような気がしてならない。すなわち日本ではなるべく問題が起きないような品質レベルまで高めるということに圧倒的力点が置かれている。しかしながら、問題が起きたとき、どう対処するかの点が非常におろそかになってはいないか。一方、欧米では個々の品質レベルは決して高くないが、問題が起きたときの対処の仕方がシステムレベルで、すなわち、仕組みで対処するとか、社会的レベルで対処するとか、何かもっと違う観点で対処しようとしているように見える。
例えば原発である。原子力規制委員会は、フクイチの事故後、世界一安全な規制を作ったと言っている。もちろんそれは原発の安全性の品質レベルを高める点で大事なことであるが、万が一それでも事故が起きたときの対処の仕方に十分な配慮がなされているか、疑念がつきまとう。SPEEDIをはじめとする情報の開示の問題、住民の避難の問題、等々、起こった時どうするか、という点での考慮が十分でないように見受けられる。原子力規制委員会を作っただけでは不十分であり、そこに行政、政治、住民が深くかかわらねばならない。
他の例はインターネットである。個々のコンピュータやネットワークの性能や品質を高めることはとても重要なことではあるが、コンピュータやネットワークやデータセンターがテロや災害に会ってつぶれてしまってもなお情報が生き残っているためには?というアメリカの軍事命題を解決する中で生まれたのがインターネットである。3.11の時、他の通信手段が壊滅だったのに対しインターネットでのメールは生きていたという話はあまりに有名である。そのような事を想定して作られたのがインターネットという通信手段だからこそである。
もう一度繰り返そう。起こらないようにすることも重要であるが起こった時どうするか、レジリアンスの高さも同じレベルで考えておくことが重要であろう。これこそが世界流、世界レベルなのである。

さて、様々な文化の違いや考え方の違いについて述べてきた。違いについて十分理解し、その多様性をあえて受け入れ、そして、我が国の良い文化とうまく掛け合わせることにより新しい創造が生まれることに期待したい。エルパソ会もそういう大志をもって進めて行きたい。