【ELPASO会員コラム33-2】「創造的破壊」を志向される方への細やかな考えるヒント

2023.12.22
ELPASO会員 本島明信

いまから40年近く前に体験したことであるのに、いまなお当時の思い出がまったく新鮮なままで、あのときは本当に良い刺激を受けたものだなあと妙に懐かしさを覚えるものが一つあります。それは当時勤めていた会社の副社長が海外の出先機関を巡回視察するのに、一人随行させられたときのことでした。
ロンドン、パリ、そしてそこからコンコルドに乗って一気にニューヨークに行った後、日本に戻る前のつかの間の休日を利用して、フロリダにあるエプコット・センターを観に行くことになったのですが、自分にとっては思ってもみなかった、感性に基づく「ものの見方」というものをその方に教えてもらえたのです。
「本島君、これは面白いね。入口に向けて沢山の人が行列を作っているのに、日本のように建物の周囲をぐるりと二重三重の輪ができるのと違って、いつももうすぐ入れるかもしれないと思えるような列になっているじゃないか。入口が近づいてきたと思うと、また遠ざかって行くことの繰り返しではあるけれど、この方が待っていても疲れないよね」と、こちらがまったく気が付かなかったことを指摘してくれたのです。おまけに表示されている待ち時間も、後から考えれば多分故意に少し多めに表示していたのでしょう、30分待ちのところが20数分で中に入れたものですから、何となく得をしたような気分になるよねと教えてもらい、確かに…と思ったものでした。  
そして更に驚いたのは、そのパビリオンの中に入ると、沢山のテレビ画面が壁にはめられている待合空間で次々に美しい風景映像を観ること暫し、入口が開いて大きな映画館のようなところに案内されたときのことでした。

大きな舞台でこれから一体何が始まるのかと期待を込めて椅子に腰かけていましたら、凡そ300人位ある席が総て埋まったところでブザーが鳴り、照明が落とされ、舞台の緞帳が上がるのと同時に、突如ゴーという凄まじい音と共に、私たちの座っている10人単位の椅子が動き出し、先頭の一列が舞台の左下にポッカリ開いた暗闇の入口に吸い込まれて行くのに続いて、次々に長椅子が縦隊形式でその後を追って動いて行くではありませんか。
そして暗闇の中から不意に恐竜の頭と長い首が現れ、殆ど接する位に近づいてきて、その後も「動く長椅子」に座った観客は、それから原始古代、中世、近代、現代、近未来の世界へと順に巡らされ、「人間の歴史」はこういうものと一気通貫で教えられて、感動と興奮に輝く目で終点に向かって行ったのでした。

少々そのときの状況説明が長くなってしまいましたが、勘の良い方はもうお気付きと思うのですが、後から考えれば、これらはすべて人間の心理を巧みに応用したプランニングに基づいていたということなのです。今日の日本ではもう当たり前になりかけている心理学の徹底活用なのでしたが、当時はまるで「目から鱗」のように斬新に感じたものでした。

いまから40年近く前に、何と米国はここまで進んでいるのかと感心させられたものの、後でその米国の歴史をよくよく調べてみれば、それほど長くはない期間で著しい発展を成し遂げてきているのが分かって意外でした。

日本の国土の約26倍の広さを誇る米国は、その広大さ故にレールウエイが発達することもなく、ハイウエイがまるで人間の血管のように国に張り巡らされているところが、レールウエイが人間の骨格のように走っていて、それにハイウエイが加わっている日本との大きな違いですが、実はそのハイウエイにつきましても、米国でインターステート法が制定されたのは、たかだか67年前の1956年に過ぎないのです。
それも若き日のドワイト・D/アイゼンハワー(のちの米国第34代大統領)が軍用車を使ってワシントンDCからサンフランシスコまでの初めての大陸横断旅行に参加し、途中ぬかるみの悪路、木製の壊れかけた橋、砂漠の高温地帯やロッキー山脈の凍てつくような寒さと戦いながら、62日間掛けて走破し、防衛の問題も含めて、質の良い道路の価値と必要性を痛感したのが発端でした。

インターステートの進捗は、線形(リニアー)に人の生活する地域が伸びて行くということですから、ある意味ではあの大陸に血が隅々まで行ったのは、たった67年前からのことというのは想像外の話と思われませんでしょうか。

「人とモノがスムーズに流れるようにインフラをきちんと整備する」ということが、あの大陸の繁栄に繋がったと考えれば、当初は幾多の反対にあったとはいえ、アイゼンハワー元大統領の慧眼と強い指導力には畏れ入るばかりです。

昨今、日本では過疎地域の拡大が深刻な問題になって来ていて、街の商店が軒並みシャッターを下ろしたままゴーストタウン化している光景が、テレビで報じられることが多くなっていますが、創意工夫を大胆に進化させる意思さえあれば、そのような状況も「地域活性化のための創造的破壊の切っ掛け」にすることも可能なのではないでしょうか。
日本はアメリカに比べれば、圧倒的に狭い国土ではあるものの、逆に鉄道網と道路網(バスを含む)の双方が発達しているという大きな利点がある上、世界に誇れる自然の美しさ、治安の良さ、食べ物の美味しさ、物価の妥当性、親切心…といったものが、多くの外国人に注目され、訪日外国人旅行者の数は2010年に861万人であったのに対し、コロナ前の2019年には実に3188万人にも達していたような状況なのです。

言葉の問題は確かにありますが、いまはスマホの自動翻訳が十分サポートしてくれるはずですから、近い将来、フランスのパリがいつも世界からの観光客で溢れている状況に、日本も達しうるのではないかと思えてなりません。

ありきたりの現状に甘えることなく、一寸手を加えること――例えば、宇都宮市のように斬新なデザインの市電を導入するだけでも、あるいは銚子電鉄のように廃線一歩手前になったことを逆手に「ぬれ煎餅」を売り出すことでも、人の流れを引き寄せる要因にはなりうるはずです。付加価値は足し算すればするほど、観光客を誘引する大きな原動力に昇華することは、既にパリが明確に実証済なのです。

当方がかつてワシントンDCに駐在していたとき、偶々ボストンから遠路ワシントンDCに車で戻る途中で偶然見た光景は、いまもなお記憶に鮮明です。

それはその昔、鉱山から採れたものを運ぶトロッコを通していた石橋が、鉱山の閉鎖と鉄橋の新設ですっかり無用の長物と化したあと、おそらく地元の心ある人たちが少しずつ花を植えていったり、木を植えたりして、四季の移り変わりを愉しんでいたのでしょう。それも5ヶ所のアーチが綾なす石橋は、どういうわけか河に斜めに架かっていて、後年併設された鉄橋が河に対し直角であるため、今日この「花の橋(BRIDGE OF FLOWERS) 」を花を愛でながら渡る人たちは、現在使用中の鉄橋から次第に離れて行く(方向が逆であれば次第に近づいて行く)という妙味が、この橋の良さを一層引き立たせていました。
おまけにその周辺は、クラシックで非常に落ち着いた雰囲気の芸術村があって、陶芸家ですとか、画家、キルト職人、工芸職人などを住みつかせて、鉱山ブームの去った小さな街を完全に生き返らせていたのです。

過疎地域の再開発というと、資金面などでついつい無理が先行してしまいがちですが、本当の面白みは、こういう「お金を使わなくても(アイデア次第で…)」というところにあるのではないか、とガツンと教えられたような気分でした。

とても良いところだな、誰かに教えてあげたいな、またもう一度是非来てみたいな、と思ってもらうようにするのに、もしかするとそうなるようプランを考える人たちの心の中のあり様も、それから人の心理に着目することも、思いのほか大事であると考えるのが適切なのかもしれません。

これから丸和育志会の皆さんが、この日本をどういう形であれ、少しでも嵩上げしようと思っていただくとき、温かみのある、ピュアな心というのが、想像以上に人の琴線に触れるはずであること、そして成功のかげに心理面での徹底した応用があることの二つを頭の片隅に残していただければと願ってやみません。
今回したためさせていただいた内容は、あくまでも皆さんの「考えるヒント」でしかありませんが、この日本の繁栄のために何が自分でも挑戦できるか、その大小を問わず、やわらか頭とゆたかな感性をもって考えていただければ大変嬉しく存じます。 
若いということはいまそれができる正しくベスト・ポジションなのです。(了)