我流100年プリンシプル② 幸福のスコープ
第1回はどんなに世の中の変化のスピードが激しくとも超長期視点にたったビジョンを持ちましょうという話でした。今回は「超長期視点=かなり先の未来」を考える上での普遍的な価値について考えてみたいと思います。
人類にとっての究極の目的とはなんだろうというちょっと大げさなテーマです。
何故こんなことを考えるようになったかは隣国ロシアのウクライナ侵攻を見てしまったからに他なりません。
国境は軍事力で侵してはならず、国家主権は尊重されるべきという最も基本的な国際法が大国の一方的な主張のみで強行され、誰も押さえることが出来ない現実を目の前に何をすべきか、平和主義を唱えるだけではその実現は甘くないと痛感しました。
フィンランドやスウェーデンが長年貫いてきた中立を捨てNATO加盟を直ちに申請したことからもその衝撃の大きさを窺えます。
さて、人類にとっての究極の目的とは?といえば、「幸福の永続」に他ならないと思います。では一体幸福とは何か?私の周りでは好きな仕事ができればそれだけで幸せと答える人もいます。
大好きな音楽評論家湯川れいこさんによれば、会いたい人に会える、行きたいところにいける、嬉しいと思える、選ぶことができる、美味しいものが食べられる、幸せの「あいうえお」、一見身勝手に思えますが深く広がりがある幸福論です。
経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏はかつて塾生から幸せとは何かと問われ、「君は寝る所はあるのか。食べるものに困っていないか。そうでなければ幸せじゃないか」と答えられたそうです。人の幸せは時代や環境によって左右されるのはもちろんまさに人によって千差万別です。
さて、それでは人類全体にとっての幸せとは何でしょうか?
実はこのテーマについてあまり語られていない気がします。
オリンピックの開会式や戦争記念日に語られる多くのスピーチは「世界平和と国の発展」ですが、漠然としています。
もともと「幸せ」は本人、夫婦、親子、家族、友人、仲間で主体的に感じるものであって、人類全体での幸せについて普段考えることはほとんどなく、正直恥ずかしいことに深く考えたことがありません。
P.コトラー教授による最新本マーケティング5.0ですら「人間のため」はあっても「人類のため」という発想はまだ見られません。幸せの最大単位は国家、人類全体となるとWHOのような国際機関がせいぜい部分的に考えているだけです。
確かに「幸せ」とはそもそも個人のレイヤーが出発点となるほうがむしろ健全なのかもしれません。個のためでなく、会社のため、国のためが行き過ぎると人権や個の尊厳がないがしろにされて権威主義や軍国主義に陥ることは歴史が示しています。
一方で個人の自由や権利が行き過ぎて自分の幸せがあくまでも第一、人類が幸せになることなんか自分にとって意味がない、もしくは自分の幸せを妨害することにひたすら反対する人たちもいます。多くの社会問題がなかなか解決しない源にあるのは自分(自分たち)中心の利己的な考え方です。
人類の視点から見ると戦争や紛争、放射能、病原体等の拡散は人類法としての破滅行為と考えるべき時が来たと感じます。
では、個人のレイヤーから人類というレイヤーまで幸せの糸をどうやって結ぶのか、一つのヒントは「人の幸せは他者の幸せと関係している」ところにあると思っています。
はっきり言えば、人間は一人きりでは幸せになれない、周りが不幸であれば幸せになれない、と言うことです。
どこまで実感できるか、もしくは自分事にできるか、人間のDNAに太古から組み込まれてきた仲間を助け、集団で協力して、子孫を残すといった本能をどうやったら再び蘇生できるのでしょうか。
ウェルビーイングを最大の共通目的とおいて、個体としての命への共感を持つことは人類が幸せに生きていく必須の考え方であり、こうした考えを持てないようであればいつまでたっても人類は幸せになれない気がします。
かつて京都大学の山中教授が京都賞を受賞されたとき、賞の創設者であった稲盛和夫氏は「人類に対する貢献という観点から選考した」と述べたそうです。
「世界全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。・・・新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある。正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」とは宮沢賢治がかつて農民芸術概論綱要の序論で書き記した言葉です。
今から100年以上も前にこういう日本人がいたことはまさに誇りです。
ビービーメディア株式会社
佐野真一