【ELPASO会員コラム35-3】歴史から遠ざけられた私達②(情報資本主義の時代)

2024.7.26
株式会社ナベル 取締役会長
南部 邦男

明治22年(1889年)、オスマン・トルコ帝国は日本への親善使節団を派遣しました。この時の使節団長パシャ提督の乗艦がフリゲート艦エルトゥールル号です。
イスタンブールの港を出港したエルトゥールル号は、スエズ運河を抜け、途中各地に寄港し明治23年(1890年)横浜港に到着し明治天皇に謁見し3か月間滞在、横浜港を出た翌日9月16日、エルトゥールル号は和歌山県串本町大島樫野崎沖を航海していましたが、同海域において折からの台風に遭遇、樫野崎の岩礁に激突しました。
提督以下587名が殉職、生存者69名という大海難事故となりました。
夜半瀕死の重傷を負った船員は串本町大島の民家にたどり着き救助を求めました。島民たちは不眠不休で生存者の救助や殉難者の遺体捜索、引き上げにあたりました。その後日本各地から多くの支援金や物資が届けられました。
69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月、比叡、金剛の2隻の日本海軍の軍艦により故郷へ向かい翌年1月に無事イスタンブールに到着、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。

1985年、イラクのサダム・フセイン大統領はイラン・イラク戦争のさなか「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」と宣言しました。
このときテヘランには215名の日本人が取り残されていました。
世界各国は自国民救出の航空機をテヘランへ派遣しましたが、私たちの国は自衛隊や安全が確保されない等の理由で民間機も自衛隊機も派遣できませんでした。外国の航空会社は自国民を優先し救援を待つ日本人を引き受ける余裕はありません。
そんな時トルコのオザル首相が日本の商社の支店長からの要請を受けてトルコ航空に打診、トルコ航空のパイロットたちはエルトゥールル号の恩返しとでも言わんばかりに2機がイスタンブール空港を離陸、テヘランのメヘラバード国際空港へ向いました。
攻撃開始が数時間後に迫るなかトルコ機2機が着陸、215名の日本人を救出したのはタイムリミット1時間前だったそうです。
彼らは、その後イスタンブール経由で日本人全員を成田まで送り届けてくれました。
当時テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうです。(映画「海難1890」)エルトゥールル号の遭難から95年後、トルコ共和国が日本人の危機を救ってくれたのです。

「経済協力の賜物で救援機を派遣してくれた・・」と報道する日本のマスコミもありましたが、後日駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

私たちはずいぶん歴史から遠ざかったと思いませんか。さあ取り戻そう、私たちの先人の残したものを。そして私たちが次の代に何を残すかを。