【ELPASO会員コラム35-2】歴史から遠ざけられた私達①(情報資本主義の時代)

2024.6.28
株式会社ナベル 取締役会長
南部 邦男

明治30年(1897年)36名の日本人青年がメキシコへの移住を目指した。
榎本武揚の提唱した「榎本殖民」である。
当時4200万の人口を養うだけの食糧生産は綱渡りであった、特に東北地方は天候不順、冷害などの不作が発生、娘の身売り、餓死など悲惨な状況であった。
そのような状況下、日本の人口問題解決策として「殖民協会」を設立してメキシコ南部グアテマラ国境に近いチアバス州タパチュラへ上陸、そこから徒歩で北西70kmほどのエスクイントラを目指した。
ここに日本の未来につながる理想郷を建設する予定であった。
植民地建設は事前調査の不備などで到着後、1年経たずして頓挫してしまい、日本からの支援が絶たれた。

多くの仲間が離散した後も理想と希望を捨てなかった青年たち6名が三奥組合と言う共産主義的な理想を掲げた共同会社を設立した。
懸命な彼らの努力で同社は発展を遂げ私設電話線なども保有した。エスクイントラにある2本の電話線の内1本は村役場の公用、もう1本は日墨協働会社(元の三奥組合)の私用電話線であった。
また彼らは会社設立と同時に「教育積立金」を始めており1906年にはアカコヤグアにアウロラ小学校を設立し日本から教師を招聘して子弟の教育を行い将来の発展を目指している。
日墨協働会社はアウロラ小学校以外にも、アカコヤグア、アカペタウア、エスクイントラの村にも小学校を建設し村に寄贈している。
大正14年12月12日発行の日本で最初の西日辞典(日本語・スペイン語辞典)の表紙には「日墨協働会社編纂」となっており同社が日本から専門家を招き3年間の歳月をかけて作成した当時の様子と彼らが理想に向かって胸を張って歩んでいる様子が見えるようである。

このように順調な発展を遂げていたものの1910年に始まったメキシコ革命でその事業活動も不可能となり1920年に20年間に亘る日墨協働会社の歴史は終焉を迎える。
同年メキシコ革命は終結し新政府のオブレゴン大統領は諸外国からの信用を得るためにメキシコ在住の外国人が革命中に受けた損害を賠償すると発表した。
アメリカ、イギリス、フランスなどはすぐに多額の賠償を請求した、一方チアバス州の日本人は驚くべき以下の内容の書簡を大統領に送った。

「国の発展の歴史の中で革命はやむを得ないこと・・・たとえ在留外国人といえどもメキシコの地に生き、暮らす者はメキシコ国民と同じ痛みを分かち合うべきである、よって私たちチアバス州在住の日本人は損害賠償の請求権を放棄します・・これはメキシコへの感謝のしるしです・・・私たちの第二の故郷メキシコの発展と平和を祈ります」
日本人はなんと尊い民族なのだろうサムライの国、日本のこの行為は長くメキシコ政治に語り継がれたと言います。

彼等のメキシコにおける生き様がメキシコ国民を感動させ同国民の心に日本人に対する尊敬の念を抱かせました。
その結果メキシコは太平洋戦争の際にも米国の要請を拒否し日系人を収容所に入れることもありませんでした。また戦後は戦争中の接収財産を日系人に返還もしています。
情報資本主義の時代、このような日本人であることが涙ぐむほどに素晴らしいことを教えてくれる歴史も私達から遠ざけられています、誇りを忘れては未来が見えない、そう思いませんか。

21世紀の日本人はいつの間にか歴史から遠ざかってしまった気がします。
私たちの祖先の誇るべき振る舞いを忘れてしまったように思います。彼ら先人の残した歴史の中で私たちは今を過ごしています。

私たちは、政治からも歴史からも遠ざかり、どこへ行こうとしているのでしょうか。