2023.1.27
名古屋市立大学附属東部医療センター
名誉院長 津田喬子
麻酔における危機管理
私が医学生の時に受けた麻酔科教授の講義で印象的であった言葉は「危機管理」でした。
「麻酔科医は手術室や集中治療室のコンダクターでなければならない。使命は危機管理に他ならない。消防士が消火と現場の危機管理を担うのと同じである」と力強く言われました。
56年も前のことです。
麻酔科医になりたての1970年(昭和45)頃では、心拍動を把握できる心電計は少なく、使用は重症例か小児に限られていました。
現在では家庭にも置かれている指先に装着して酸素飽和度を測定するパルスオキシメーターもありません。成人の全身麻酔症例では、血圧計、食道内に留置して肺の呼吸音を聴く食道聴診器、唇の色でみる血液酸素飽和の状態、尿量などによる管理でした。
コンピューター制御による多機能・高性能のモニター機器が設置されていて、すぐに異常を知らせてくれる現在のハイブリッド手術室とは雲泥の差です。
それ故、自身の感覚を研ぎ澄まして全身麻酔下にある患者さんからの生体情報を冷静に解析しつつ、瞬きをするのも惜しんで手術野を凝視して麻酔管理をしていたことを思い出します。
常日頃から厳しく言われていた「五感を使って麻酔管理をせよ!」が身に付いていました。
さらに、事故対応策として各手術室・手術室廊下・麻酔科医控え室・集中治療室には通常の連絡用ブザーの他に、麻酔科の強い要望で赤く点滅する緊急用のブザーが設置されていました。
重大な事象が発生した時やそのような徴候が予見された時でも赤ブザーを押しました。鳴るやいなや、手の空いた麻酔科医が赤ランプの点滅する場所へ駆けつけてチームで事態収拾を図るためです。
赤ブザーを鳴らしたが、それが重大事ではなかったとしても「危機は突然現実となる、本当に危機が発生した時に、普段から危機管理を想定して訓練していなければ対応できる訳が無い」と咎められることはありませんでした。
平静の「危機管理」の重要性がクローズアップされたのは、1995年(平成7)の阪神・淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件です1)。
それが麻酔科領域において問題となったのは、1999年(平成11)の横浜市立大学附属病院で発生した「手術患者取り違え事故」でした。手術室への患者受け渡しの際に起きた取り違えがその後も見逃されたまま、麻酔と手術が行われてしまったという医療事故です。
当時私は名古屋市立大学病院麻酔科に勤務していて、小さなミスでも重なると大きな事故につながることを日頃から医局員に注意していましたし、学生にもスイスチーズモデル(後述)を基に危機管理の講義をしていましたから、そのモデルが現実となった典型的な事故に驚愕しました。
スイスチーズモデルとレジリエンス
スイスチーズモデル(Swiss cheese model)とはイギリスの心理学者ジェームズ・リーズンが提唱した概念であり(図1)、事故は単独で発生するわけではなく複数の事象が連鎖して発生するという考え方です。「事故発生防止のために多くの防御層が備えられていても、それらは完璧なものではなく実際にはスイスチーズのスライスに似ていて多くの穴(脆弱部分)がある。この穴は絶え間なく閉じたり、開いたり、あるいは場所を移動したりしているが、多くの層の穴が「ある瞬間」に繋がってしまうと事故発生へと進む経路が偶発的に作られる」と説明されています2)。
図1.スイスチーズモデル
前述のジェームズ・リーズンは、例え事故によって組織が悪影響を免れなかったとしても、高信頼性組織であれば、それをバネにしてシステムの回復力(resilience)の強化に切り替える術を備えていると説いています。
COVID-19パンデミックにおける危機管理
危機管理学において求められる4つの機能として、インテリジェンス(国内外における危機の発生状況、動向、情報収集)、セキュリティ(危機的感染症の蔓延防止に関する措置)、ロジスティクス(医療体制の確保のための総合調整)、リスクコミュニケーション(地方自治体、指定公共機関、事業者、国民への情報提供)が報告されています(図2)1)
図2.危機管理学の4機能モデル
前2回のコラムの内容を危機管理学の4機能モデルの視点から以下にまとめました。
1.インテリジェンス
我が国ではWHOと米国疾病予防管理センター(以下、CDC)がCOVID-19の感染経路を口、鼻から出る飛沫と手指の接触感染からエアロゾルへと修正した以後でも、情報収集が遅れたためか、またはエアロゾルと認めたくない何らかの理由があったのか、政府とマスコミは飛沫と接触による感染防止に拘りました。
2.セキュリティ
早い段階で政府が着手した消毒用アルコールの代替品の有用性の検証について、伝染性疾患には全く素人の独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)に依頼した根拠は不明のままです。
失望したのは、この検証からはエアロゾルとして空中に浮遊している新型コロナウイルスを除去する方法が示されなかったことです。
私が名古屋市立東部医療センター病院長であった2009年4月に、メキシコで豚インフルエンザによる最初の犠牲者が出たとの情報を得て、いよいよ日本での流行の危機が想定されました。
当該施設は名古屋市の第2種感染症指定医療機関でしたので、しっかりとした受け入れ体制の整備を指示しました。
伝染性の強い病原ウイルス感染患者は陰圧装置を備えた室内での治療管理が必要です。当時10床の感染病床を保有していたものの、陰圧室がわずか2床では全くのベッド不足となることは明らかでした。
この経験から、将来の重症ウイルス感染症に対応するには陰圧室の増床が不可欠であることを名古屋市に説明し、病室に陰圧装置を完備した感染症病床(10室、10床)、簡易陰圧装置を備えた一般病床(21室、40床)を持つ名古屋市病院局感染制御センター設立に至りました。
これにより予測もしなかったCOVID-19のパンデミックへの対応ができました。
3.ロジスティクス
我が国では米国のCDCに相応する組織がないため、ひとまず厚労省がイニシアチブを取って「省壁」を超えた感染対策チームを構築して対応すべきであったと考えます。このような方策の気配もないことは、国の総合的危機管理対応力が欠けていると言わざるを得ません。早急に日本版CDCの構築が望まれます。
4.リスクコミュニケーション
新型コロナ対策・健康危機管理担当大臣 (2020年–2021年)として、経済産業大臣がCOVID-19に対するリスク管理の指揮を執ることに強い違和感がありました。
米国のCDCは保健社会福祉省の組織として国民の健康を守るために断固たる行動指針を示し、米国民の健康に関わる重要な問題への対処に蓄積された科学的知識を投じているとされています。
このようなパンデミックの状況ではウイルス学の専門家のみではなく、公衆衛生学の視点を有する「総合的危機管理」専門家が指揮官として早期に介入すべきであった筈です。
メディアは修正能力がないのか圧力に屈したのか、不正確な情報を国民に声高に伝えました。エアロゾルを介する呼吸器ウイルス感染症の予防に対して、糞便を介する赤痢・コレラ等の伝染病に有効な「手洗い行為」を盛んに報じたのは何であったのでしょうか。
まとめ
実に第8波になるまでCOVID-19の蔓延を許してしまいましたが、国は国民の心身の健康を守るために、「科学的見地」に立脚した感染症対策を断固実行していただきたいと切に願っています。
参考文献
1) 福田 充:新型コロナウイルスの危機管理とリスクコミュニケーション.桜門体育学研究、56:21-32,2121
2) James Reason: Human error: models and management. BMJ.18;320(7237):768-770,2000 Mar18