2014年秋から始まったNHKの朝の連続ドラマ「マッサン」が高視聴率を維持して終了した。文明開化・富国強兵の明治時代から、より自由な大正時代に変わった頃の日本で、誰も発想さえしなかったジャパニーズウイスキーづくりに挑戦した経営者と、現場で設備を設計し、醸造・蒸留・貯蔵という製造工程を担当したスコットランド留学帰りの醸造技師夫婦の物語である。意見の相違や喧嘩の場面も数多くあるが、登場人物ひとり一人の熱い思いが十分伝わってくるドラマである。インターネットの普及した現代に比し、僅かな、且つ限られた情報の中で、自分が強く思う希望、目標、志に向かってまい進する人々の姿が視聴者の心を強く打つのであろう。社内を含めステークホルダーの多くが反対する事業に人生をかけようという意思は、当然強い「思い」から出てくる。歴史上ことを成した人物はすべて強い「思い」を持っていたことは明らかであり、このドラマもそれがポジティブライフ(エネルギッシュな自主的行動による元気な前向き人生)を実現させたケースといえる。
「思い」に似た言葉に「思い込み」がある。「思い込み」には、もはやそこから抜け出すことは困難な、不自由な世界というイメージが伴う。環境変化に適応しながら「思い」の達成に努力するのではなく、出口のない自縄自縛のアリ地獄に落ち込んでしまう。つまり「思い」がポジティブライフを生み出すのに対して、「思い込み」はネガティブライフ(自主性がなく、暗く元気のない後向き人生)を作り出す場合が多い。このドラマの時代背景は明治維新から僅か数十年であり、現在とは大きく異なる。とはいえ、豊かであっても長く続く閉塞感を乗り越えることができない現代日本に生きる我々に、「思い」ではなく「間違った思い込み」が社会の隅々にまで浸透しているであろうことを十分示唆してくれる。
「責任」という言葉は、社会人としての生活を送る上でもっとも難しい言葉の一つである。これほど理解が難しい言葉であるにもかかわらず、みんながこれほどよく使う言葉も珍しい。世の中には、無責任な人が確かにいる。福島第一原発事故のあとさっさと辞職し転職した幹部をみると、責任の取り方をどう考えているのか、と問い糺したくなる。原発以外でも、大事故が発生すると「責任を取れ!」と国民やマスコミが大合唱し、再発防止よりも責任者の特定、糾弾、制裁にエネルギーを注ぎ込む姿は、戦争や公害問題、薬害問題、公共交通事故等における責任者の無責任行動を、見てきた人々の怒りが中心となって作られた風土といえる。しかし、この責任制裁風土とでもいうべきスタイルが「社会的思い込み」となって、我々の「常識」やカルチャーになってしまったと言っても言い過ぎではない。そのなかでは、責任追求対象にされる状況に身を置くことを、みんなが避けようとするのは自然な流れである。「責任者」になった者は、大事故が発生すればしぶしぶ責任を取ることになる。すなわち日頃の行動基準の第一優先順位は「責任回避」、という組織が少なくない。その結果として、個々人は「自主的に行動する力=生きる力」を失い、うつ病患者の激増等、社会全体の閉塞状況を生み出しているといえるのではないだろうか。
また、糾弾する側の人々に、あなた方自身は無責任な行動をしたことはないのかと問えば、自分は責任あるポジションにはいないので、責任を取るとか取らないとかを考えるべき立場にはない、という答が返ってくることであろう。そこにこそ「責任=制裁=重圧」という「思い込み」が、組織や社会全体に浸透してゆくメカニズムが組み込まれていることに気づくべきである。このスキームの存在を意識して、根本的対応に取り組むことが大切であるにもかかわらず、閉塞社会を再生産し続けてきたのがバブル崩壊後の日本社会といえる。
一方、活性化された組織/元気な組織では、メンバーが自ら責任を持とうとする。というよりも自ら責任を持とうとするメンバーの多い組織が、元気な組織である。強い組織とは、直接外部環境と対峙する現場の一人ひとりが、責任ある行動を取る組織である。個人視点からみても、自ら責任を持ち自主的に行動した仕事がもたらす充実感を経験した人生と、責任回避のため逃げ回ってばかりいた人生とでは比較にならない。前述のドラマのなかで、鴨居欣次郎社長が繰り返し従業員に向かって言う言葉に「やってみなはれ!」がある。「やってみなさい!」に相当する大阪弁だと思っている人が多いが、もう少し突き放した、自己責任感ニュアンスを合わせ持つ言葉である。もっとも適切な標準語表現は「自分がやりたい仕事なら、遠慮せずにやればいいじゃないか、やらなければ分からないだろう、と上司が言う」ではないかと思う。友達が言うのであれば、ありがたいアドバイスだけのことであるが、上司が言うところがポイントである。
上司から「やってみなはれ!」と言われ、「要するにやれ!ということですか、やるな!ということですか」とか、「失敗したときの責任は私になるのですか」と質問をするようでは、鴨居商店組織内の人事考課点数は下がることであろう。失敗したときの(狭義の)責任=組織的制裁は、実行者だけが取る時もあれば、その上司、場合によってはトップということもあり得る。責任の取り方自体も、仕事をやってみて、結果を見なければ分からないのである。それを恐れて安全第一の人生を送るのではなく、やりたい仕事への取り組みに賭けてみようというスタイルがポジティブライフを生むこととなる。
人間は一人では生きてゆけず社会の中で生きてゆく生物であり、集団・組織・社会の影響は大きい。しかしながら、それらが個人に強要している思考癖や行動パターンには、その組織にとって本来意味のないものも少なくない。さらにその多くは、自分自身が作り出した「間違った思い込み」であることに気づくことが、ネガティブライフ脱出方法となる。失敗したときの制裁ばかりが気になる思考癖が一度刷り込まれると、「責任」は当然「重圧」となる。しかし、責任ある行動は生きがいと表裏の関係にあり、「責任」コンセプトを「重圧」から「生きる力」に捉えなおす方法や知恵を、身に付けることができるかどうかがキーとなる。失敗したときの責任は、失敗した時点で考えることであって、始める前に考えることではない。したがって、「ことが始まる前の責任」と「ことが終わった後の責任」、或いは「前向きの責任」と「後ろ向きの責任」という言葉の理解を深めなければならない。「自分で考え、仲間を作り、社会に役立つ活動を実践する」ことに賛同する人々のネットワークを形成し、前向きな仲間とのフランクなコミュニケーションを通じて、後ろ向きの思い込み/思考癖を捨て去ることができれば、どのような人にとっても、ポジティブライフを送ることは十分可能であると思う。